2008年
コチャバンバからの手紙
和解、それは炎ボリビアで、中南米のすべての国々から集まった青年たちと一緒になって、わたしたちはこう問うたのです。「今日、どんな希望の道を切り開くことができるのだろう」と。 社会的にも民族的にも非常に多様な人々から構成されるボリビアの人々は、対立を後ろに追いやり、より豊かな正義と平和へ前進しようと模索しています。 地上の多くの場所で、歴史のいまだに癒されることのない傷によって、新しい緊張が生じています。不正義に直面して、無気力感がますます人々の心を支配しようとするときに、どのように傷が癒されるのでしょうか。 コチャバンバに集まった青年たちは、多様性がわたしたちを不可避に分裂や対立に導くものではなく、その内側には、互いの価値を高め、互いに喜びをもたらす豊かさが抱かれていることを証してくれました。 [1] 自分の生活のすべてをかけて、和解の心で葛藤するようにという福音の呼びかけを生きる勇気あるキリスト信者に、わたしたちはボリビアで出会いました。 和解の源泉わたしたちは、和解の心で葛藤するために必要な力を、生きておられる神との個人的なコミュニオン,交わりから引き寄せます。この内側のいのちの営みなくしては、決断したことを十分に行動に移すことはできません。わたしたちの喜びは神の内にあり、神の内に自分の人生を十分に生き抜く希望があるのです。 神ご自身が、わたしたちのために最初の一歩を踏み出されたのではなかったのですか。イエスをこの世にお送りになり、人間一人一人との真の出会いのために、神はご自身を差し出されました。わたしたちの理解をはるかに超えて、神がとても近いお方になられたのです。 愛のゆえに、神はわたしたちの存在をご自分と分かち合われることを望まれ、神は一人の人間となられました。さらに、十字架にご自分のいのちを差し出すことによって、イエスは人間のもっとも低いところを選択されました。 [2] わたしたちと神を引き離すものすべてを、イエスはご自分で引き受け、わたしたちの存在と人間性すべてを担われたのです。 [3] そしてご自分のいのちをわたしたちに伝え分かち合われました。 [4] このようにして、創造されたすべてのものの変容がすでに始まっているのです。 [5] 神とのこの交流は、祈りを通してわたしたちの中で実現されます。聖霊によって、神がわたしたちの中に宿られるのです。みことばによって、またサクラメント,秘跡によって、キリストはご自身をわたしたちに差し出されます。そしてわたしたちは、すべてを神にゆだねるのです。 [6] すべての人をつつみこむ友情を広げていく 和解の炎をふさ,塞ぐことはできません。身近なところで、また遠く離れたところで、わたしたちが平和を創り出す者になるよう招かれるその道に、和解の炎は光を照らすのです。 [7] 神がわたしたちのために何をしてくださっているのか気づくなら、そのことによって、わたしたち同士の関係も変容されます。他者との真正なコミュニオン,交わり――いのちを与え、受けとる交流――が可能になるのです。 他者に向かって最初の一歩を踏み出すようにと、福音はわたしたちを招きます。たとえ前もって彼らがそれに応えてくれるという保証がなくとも。 時として、特に関係が壊れてしまっている場合に、和解は達成できないことのように思われることがあります。そのようなとき、和解への切望はすでにその始まりであるということに気づくのです。キリストはどうにもならないと思われることを自ら引き受けてくださいます。そしてわたしたちは、癒しが必要なすべてのものを、キリストにゆだねることができるのです。それは、どんなに小さい一歩であっても、緊張を和らげるために歩み出す機会を捉えるよう、わたしたちを整えてくれます。 和解は、社会をその深みから変容することができます。復活されたキリストの聖霊は、この地上のおもて,面 を再び新たにするのです。このご復活のダイナミズム,躍動 によって、わたしたちは前へと突き動かされます!直面する問題の複雑さのために落胆に陥ることのないようにしましょう。ほとんど何もなくとも始めることができることを忘れてはならないのです。 [8] 教会のコミュニオン,交わり はわたしたちを支えます。それはすべての人に向けられた友情の場所です。 [9] 対立する状況の中で、わたしたちは他者に耳を傾けようとしているでしょうか。耳を傾けることによって、実に多くの分裂の痛みが軽減されます。 [11] 他者の立場に身を置くことに心を砕こうとするのです。 わたしたちは、資源のより公正な分かち合いを確かにする道を探しているでしょうか。さらなる単純素朴さ、困窮した人々との連帯、そして被造物への一層の配慮に向けて、わたしたちの生活様式をあえて見直そうではありませんか。 わたしたちは、より貧しい人々に近づこうとしているでしょうか。彼らと分かち合うことにより、いのちの交流が生まれます。彼らによってわたしたちは心の広さに導かれ、わたしたち自身の殻から抜け出します。さらに、彼らの貧しさによって、わたしたちは自らの弱さを受け入れるよう助けられます。このような関わり合いにより、わたしたちは人間一人一人の尊厳を大切にしてゆくのです。 わたしたちは、あえて赦すところまで進もうとしているでしょうか。絶えることのない屈辱の鎖を断ち切る方法が他にあるでしょうか。 [12] それは辛い過去を忘れたり、不正義なこんにち,今日 の状況に目を閉じることではありません。福音は、赦すことにより傷ついた記憶を克服するように、そして見返りに何かを期待することすら乗り越えるようにと招いています。このようにして、わたしたちは神の子としての自由を見いだすのです。 そう、わたしたちは和解の心で葛藤することを望むのです。コミュニオン,交わり の心熱い探求者となるために。すべての人々をつつみこむ友情を広げてゆくために。 [1] 地方の青年たちが伝統的な装いでコチャバンバに到着したとき、それはまさに色彩の祝祭でした! ボリビアの全地方の青年たちが、平地と山間部から、都市と村々から一堂に集まる様子、それは何という喜びでしょう。青年たちが、その生活の仕方によって、「和解の微気候」の発生に貢献できることをこの大会は示してくれました。福音が真にボリビアにおける和解の推進力になるために、多くのキリスト者が、信仰を宣言しながら、互いの伝統的、文化的、宗教的背景を今まで以上に大切にしようとしています。 [2] 聖パウロにとっては、キリストによって成就した和解は、天地の創造のすべてに関わることでした。イエスが来られたのは「万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく和解させる」ためだったのです。(コロサイ1:20) そのために「イエスは神と等しい者であることに固執しようと思わず、かえって自分を無にして、しもべ,僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(フィリピ2:5-11) [3] みことばの黙想からもたらされた霊感による詩的な表現で、正教会のクリスマスの典礼ではこのように歌われます。「創造者は、ご自分の手で創られた人間が迷うのをご覧になられて、天空を折り曲げ、くだ,降ってこられた。きよ,聖く無垢な処女のもとにお生まれになり、ご自分のからだの内に人類すべてを抱かれた。」 [4] 2世紀のキリスト者、リヨンのエレイナイオスはさらにこのように言い切ります。「その無限の愛のゆえに、キリストはわたしたちになりました。それはわたしたちを完全にキリストにするためなのです。」 [5] 聖霊は、創造の中心にある魂のようです。「この世界の美しさは、聖霊の活気溢れる力によって保たれている・・・。この聖霊はすべてのところに浸透し、天と地に存在するものすべてを保ち、鼓舞し、生き返らせている。」(ジャン・カルヴァン Institutes of the Christian Religion I XIII、4) [6] 神とのコミュニオン,交わりを、いつも感情によって体験できるとは限りません。わたしたちの内の聖霊の現存は、もっと深いものです。何の感情が伴わなくても、たとえば単純な姿勢をとることによって――ひざまずいたり両手をひろげることなどによって――祈ることができます。そしてそのときすでに神はわたしたちを訪れてくださっているのです。 [7] キリストはご自分に引き寄せられた者を世に遣わされます。マルコ1:17 参照。 [8] 10:1-16 参照。 [9] 若いボリビア人の女性、ロクサーナは、近年ボリビアで問題となっている大きな社会的緊張を和らげるために、教会が果たそうとしてきた役割を次のように表現しました。「何が人々の抗議、憤りや不安感を招くのでしょうか。愛の欠如でしょうか。自分たちの声は聞きいれられないと知る人々の無力感でしょうか。 [10] >は言われる。『女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようともわたしがあなたを忘れることは決してない。』」(イザヤ49:15) [11] >的な関係の場合と同じように、社会全体の中でも、そして人々や大陸間の国際関係においてさえ、互いに耳を傾け合うことが必要です。 [12] チャバンバでの大会で驚いたことの一つが、対立関係にある隣国のチリから多くの青年が参加したことでした。大会最後の日、チリ人の若者たちはボリビアの若者たちに和解のしるし,徴 をその場ですぐに表すことを願いました。そして公開書簡を通して、過去そして現在のすべての対立について赦しを求めたのです。 |